開高健58歳。


 開高健のファンである。広大な言葉の森を自由に飛び回りながら、豪快かつ繊細に表現する氏の表現力には感嘆させられた。氏は若き頃、サントリーのコピーライターだったが、正に日本が生んだ天才コピーライターでもある。彼の初期のルポタージュ「ベトナム戦記」では、ろくな情報がなかった当時、氏の鋭い目がこの戦争の本質を照らした。ホーチミンを訪ねたとき、彼がルポを執筆したサイゴン川沿いのマジェスティックホテルのスカイ・バーに行き、彼をまねてお酒を飲んだりした事もあった。様々なエッセイで左脳も右脳も刺激してくれた彼は「オーパ」で大いなるロマンを僕らに与えてくれた。そして自ら不健康な小説家だと語っていた彼は1989年に亡くなった。当時はそれなりの歳になったいい親父さんと思っていたのだが、このとき彼は58歳だったのだ。そう思うと今59歳になった僕は何なんだろう感慨にふける。さて、僕はこれからどうしよう。氏に聞いてみようか。「風に訊け」。

カレーお好みとパンカツ


 本日食べた我が家のランチ。これは我が家のオリジナルメニューで名前が無いのだが、あえて付けるとすれば「カレーお好み焼き」。昨晩のカレーが余っているとき、溶いた小麦粉をフライパンに油をひいて焼き、たっぷりの千切りキャベツと残りのカレールーをのせて焼くだけの素朴なお好み焼きである。これは、先日亡くなった義父が大昔に開発?したメニュー。昔の一銭洋食とか薄いお好み焼きからヒントを得て作ったのだろう。義父はカレーライスがあまり好きではなかったようなので、自らが食べやすいものへ加工したのかもしれない。それがカミさんに伝承され、僕も味わうことになった。カリッと焼かれた生地の中からトロトロとカレーが出てくる味わいはなかなか。同じく義父から伝承された食べ物に「パンカツ」というのがあって、冷えて堅くなった食パンに、溶いた小麦粉(重曹を入れるとパリット焼き上がる)を付けてフライパンで焼き、それを砂糖を溶かした湯にくぐらせてからソースをかけて食べる、フレンチトーストに似た食べ物もあるのだが、どれも貧しくも哀愁漂う食べものである。しかし、どちらもこれがなかなかいけるので、ときどき思い出したように食卓に登場するのだ。

黒い画用紙


 昨日NHKの「旅のチカラ」を観ていたら、一日じゅう太陽が昇らない「極夜」の季節を迎えて、フィンランド極北の小学校では子どもたちがお絵描きをする画用紙が黒い画用紙であることに驚いた。子どもたちはその黒いバックに様々な色をのせてゆくのだ。一日じゅう暗いわけなので風景も真っ暗。なるほど白い画用紙に黒を塗る手間が省ける。ラップランドの女性がこう語っていたのも印象的だった。「暗いといろんなものが見えないから恐くないわ。暗いことは恐くないのよ」。私たちはいつから暗闇を怖がるようになったのだろう。星とともに暗闇を楽しめるか。

やっかいな介護の領域


 ある日突然老いた親が倒れた瞬間から、家族はめくるめく「治療」「介護」の渦の中に巻き込まれる。そこには本人の健康を気遣う不安や心配ごととは別に、何も知らない世界の新たな問題が山積していて、まるでありったけの荷物をしょわされ樹海の中をさまよう感じになる。僕も認知症の母親を抱えた経験があるのだが、その時、なにもかにもがわからなくて感覚が追いついて行けず閉口した。今も義父の入院問題を抱えている現状である。最もわかりにくいのが現状の医療介護システムのあらゆる所に存在する「領域」の問題である。列記してみるとまず理解しなくてはいけないのが「医療と介護の領域」。そして「緊急医療と長期療養の領域」「公立病院と地域診療所の領域」「病院と介護施設の領域」さらに「医師と看護師の領域」「看護師と介護師のそれぞれの領域」「ホームヘルパーと介護師の領域」「介護認定のシステムとそれぞれの支援領域」「健康保険と介護保険の領域」「特別養護老人施設と一般老人ホームやグループホームなど老人施設それぞれの領域」「在宅介護の限界領域」「ディサービスの領域」「延命とリハビリの領域」…こんなのは氷山の一角で、実はサービスを提供する所属の違いによってもっと細かい点でもさまざまに領域の理解が必要なのだ。例えば「介護用オムツ」の扱いひとつだって病院や施設ごとに違う。で、これらの相談にのってくれるのがケアマネージャーとされているが、それも「ケアマーネージャーの領域」というのがあって、あるところまでは参加できるがそれ以外はそれ以降はという領域があるようである。相談員という人々も随所におられるのだが、所属する立場からのアドバイスになりがちで、本当に何も知らない患者や家族の立場に立って相談できるかどうかが??である。何といっても慢性的に病院や施設のベッド数が足りない上に、医者も看護師や介護師の数も足らない世界、在宅介護の援助システムも道が見えず、家族は右往左往振り回されているのだ。それもことあるごとに書類の山に目を通しサインをしなくてはならない(これは患者や家族だけでなく医師、看護師、介護師あらゆる人々にも課せられる苦行である)。もちろんがんばってくれている医師や看護師、介護師の方々には感謝しているのだが、なにかもっと大枠で何かが違っているような気もしている。多くの家族は介護の現場で先日まで知り得なかったあらゆる矛盾に直面することになるのだが、あまり外に発言はしない。それどころじゃない毎日なのだ。それでなくても本人や家族は不安の渦の中にあるわけで、精神的負担を増大させているこの「領域の壁」をもっと無くしてシームレスなシステムにできないのだろうか、なぁ?

ホンニョ


 奈良の明日香でみかけた風景。これは収穫の後、稲穂を束ねて天日干しするもの。農業には疎いが、今はあまり見かけない気もする風景ではないだろうか?なにかDNAに響く味のある風景だなぁ。これって何と呼ぶのか調べたら「ホンニョ」というらしい。ポニョなら聞いたことがあるが面白い名前だなぁ。さらに調べると元は「穂の仁王さま」から来ているという説があるらしい。さらに面白い。しかし、このホンニョ、観光地石舞台古墳前にあって下がリアルな田んぼじゃないので、なんか観光用のディスプレーかも。

訳ありおせち


某老舗料亭が監修した訳あり3段重おせちとやらをネットで買ってみたりしたのは、いつも年末に手づくりの「おせち」を作ってくれる義父が今年は入院しているからである。だから本当に訳ありおせちなのである。意外にもネットで買った「おせち」はしっかりしていていい味している。とはいえ、はっきり言えるなぁ。義父がつくってくれる「おせち」の味にはまったくかなわない。
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

うそば


 世の中にはいろんな麺があるものでこいつはその名を「うそば」という。この名前から想像できた人は偉い。そう、うそばとはうどんと蕎麦が合体した言葉なのだ。驚いたことに「うそば」の麺は一本の麺のうち片面がうどんで片面がそばというなんとも、マジカルな麺なのである。「うそばなんてうそだ!」というなら福井県は若狭へいって確かめて欲しい。先日若狭へ行った折りたまたま立ち寄った「麺房かなめ」という店でこれに出会った。写真を見ると蕎麦とうどんが表裏一体となっているのがわかる。写真上が「釜揚げうそば」下が「ざるうそば」である。釜揚げの方は釜揚げうどんにようにつゆにつけて食べると、蕎麦の風情も少しはあるが基本的にモチモチとした細いうどん風の味わい。ざるの方は食べていないがおそらく、似たような感じだろう。味は悪くは無いけど正直「どっちつかず」であるなぁ。逆に言うと蕎麦もうどんも楽しめないのだ。二兎追うものは一兎をも得ずという言葉を思い出す。仮に蕎麦とうどんを同時に楽しみたい人がいるとしても、その場合は蕎麦とうどんのそれぞれの小盛りを一緒に出せばいい話だと思うのだ。この麺はめずらしい麺をと開発されたらしいが、なぜ蕎麦とうどんが一体とならなければいけないのか、その必然性がないよなぁ。

コミュニティーに呼びかける


 アーティストのキャンディ・チャンというアメリカの女性が、ニューオリンズの自宅の近所にある空き家を利用して何かできないかと考え、こんなことを思い付いた。空き家の壁に一面黒板を貼って、大きな伝言板にし、そこに穴埋め式のひとつの質問をたくさん並べて、道行く住民が自由に書けるようチョークを置いてみたのだ。その質問は「Before I Die I want to___.」(死ぬ前に私は___したい)。すると近所の人々から驚くような答えや、感動的な答え、あるいはユニークな答えが寄せられ、普段日常的に考えることの少ないシリアスな質問に、その伝言板がコミュニティーをより鮮明に浮かび上がらせ親密度の高いものした、という。これが世界中で、わが町でもやってみたいと反響を呼び、今やこの伝言板制作キットまで用意されているらしい。彼女は以前にもこうしたアクションをしていて、例えば廃屋などに「I WISH THIS WAS___.」「私はこれが___だったらいいと思う」というシールに人々の思いを自由に書いてもらい現場に貼り出す、なんてイベントも行っている。コミュニティーを浮かび上がらせるのに、人々の心の部分に直接呼びかける手法はなかなか面白いと思う。彼女の話、聞いてみますか。
TEDで行われたプレゼンテーションは「こちら」
ちなみに
「Before I Die___.」に関する内容は「こちら」
「I WISH THIS WAS___.」に関する内容は「こちら」
写真はwww.ted.comより。

リミックス

 ボブ・ディランの全盛期にたくさん作られた曲の中の3分の2は古いフォークソングのコピーであると言われているそうだ。メロディーは同じだがアレンジが違う、歌詞も違う。ディランは「どこかで聞きかじったメロディーをいつのまにか自分が作ったメロディであると思ってしまった」と証言している。
 このことは我がデザインの世界でも起こり得ることだ。起こり得るというより、ほとんどがこれではないかとも思う。あちこちで得たイメージの脳内データベースの中から何かを選び出して模倣しているだけなのかもしれない。「芸術は模倣である」とは誰かが行った名言であるが、よくよく探ってみればこの世にオリジナルというものはほとんどなく、永い歴史の中で人が作ったさまざまなものに影響されて、またはその上に何かができてくる。「コピーし、変形させ、つなぎ合わせて、リミックスを作る」「真似る、改善する、再構築する」これが人が行う創造というものかもしれない。
 著作権や特許権というのは社会や経済システムにおいては利害関係を守る重要なルールなのだが、先に照らして考えれば個々の内容は危ういものかもしれない。Appleはライフスタイルを変えるほどの斬新なアイデア製品をつぎつぎと発表しているが、「マルチタッチ」にしても基本的にはずっと以前に開発されていた技術だ。スティーブ・ジョブズは以前「いろんな技術を利用させてもらった」と語っていた。なのに、Samsungに対してAppleは「真似をした」と怒っている。Windowsのウインドゥを使ったオペレーションシステムだってそれ以前のAppleにあったものだし、世界中に走る多様な自動車たちも、さまざまな技術のコピーを繰り返し再編され切磋琢磨しているに違いないのだ。もちろん一方で商売一辺倒の稚拙なコピー(Fake?)も繰り返されてはいるのだが…、
 「illy」というコーヒー会社は自社で培った技術を特許権で守らず「コーヒーの発展の為に」開放公開していると聞いたことがあるし、またiPS細胞を発見した山中教授のいる京都大学は特許権を獲得し、技術使用の采配権を持つことで逆に開放し、医学進歩に貢献しようとしているとも聞いた。コピーの世界に自由は必要か否か。
 チベットの高僧に人の道を問えば「人は本当の自分を探そうとするから苦しむのだ。本当の自分自身などこの世に無いのに…」と言う。「あなた自身は親からできたものであり、親はそのまた親からできたものである」とも言う。自分自身のDNAがコピーなのにオリジナルの自分などあろうはずが無く、そのコピーが人生の中でいろんなものに影響されながらリミックスされたものが今の自分というわけだ。
 ボブ・ディランの曲がコピーだからといって、彼の作った音楽が人々を感動させたことに違いは無い。ゴッホが日本の浮世絵を模倣したからといって、彼の作品の価値が下がるわけではない。我々はもっと「リミックス」というものを受け入れるべきかもしれない。なぜなら、この世はほとんどリミックスなのだから。
 ということで、TEDで拾った受け売りや、あちこちで聞きかじった情報をリミックスしてこの文章を書いた、というわけ。
(ちなみに写真はリミックスの金字塔「カツカレー」)

アンチョビ缶の謎

「えーっ?!!何ーこれー!!」とカミさんがキッチンで叫んだ。何かと思って覗くと、これであった。これは北欧に行った時、スウェーデンのスーパーで仕入れたアンチョビ缶である。カミさんがこの蓋を開けたら何も入っていなかったのである。「ええっ?そんなことが?!」。見ると缶には汁だけしか入っていない。肝心のアンチョビが入っていない。まさか蓋の裏にくっついているとか?やはり無い。これはアンチョビの汁だけの缶詰?それともアンチョビが溶けてしまったのか?ネットで缶詰にアンチョビが入っている写真を見つけた。となると、クレームか。しかしスゥエーデンだものな。これ100円ぐらいだしな。泣き寝入りか。しっかし、そんなことってあるのか?